こうしてきみは己が名を獲得する(あるいは、きみがロリィタであるための条件)

ドレス願望、というものについて考える。僕ではなく、きみが。

お姫様のような(あるいはセレブのような、スーパーモデルのような。比喩の対象はなんでもいい)ドレスを着てみたいという願望だ。ほとんどの日本人女性が持っているとされている。特別な自分を演出する。いつもと違う自分になれる。そんな言葉がセットでつく。変身願望に類似するのかもしれない。

きみには、その願望がない。しかし、かつてはあったのだ。それも、強烈な願望が。それは、いつか素敵なドレスを着てみたーい、と願うような可愛らしい感情ではなかった。着たい着たい着たい着たい着たい着たい着たいのに着られない着ちゃいけないどうしてどうしてどうしてどうしてこんなに着たいのに着たいのに着たいのにどうしてどうしてどうしてなの! と、地を這い、血反吐を吐き、必死の形相で掴みかかるような、呪詛にも似た想いだ。

ロリィタファッションに対しての。

血反吐を吐き、のた打ち回った末に、きみは結局、憧れのその服に手を伸ばした。おずおずと、しかし、投身自殺を図るのにも似た決意を持って。それは、自己満足のきせかえ遊びだった。きみにとっては。そう言い聞かせていた。それはつまり、悪意ある何者かによって批判され傷つくことを恐れ、先回りで張った、予防線だ。

当時はまだ、「下妻物語」の映画はもちろん、原作さえも出版されていなかった時代。

ヴィクトリアンブームさえ起きておらず、「カワイイ」「ガーリー」といった概念が市場を席巻するより前の時代だ。

ロリィタなんて、どこに着て行っても浮き上がる格好であることはわかってる。

こんなお人形さんのようなお洋服が文句なく似合うような、超絶美少女なんかではないことも、わかってる。

だけど、それでも、着たいんだ!!!!!!

十代半ばでロリィタに目覚めて以来、「似合わないし」「勇気ないし」「お金もないし……」と言い訳して、我慢して我慢して我慢しつづけてきた今、それでも、やっぱり着たいんだよぉぉぉぉぉ!!!!!!!

この気持ちを抑圧したまま、三十路を超えてから爆発するくらいなら、あるいは「本当は好きなのに」という気持ちがねじれ曲がって、愛憎入り乱れた想いでロリィタを罵りまくる類のめんどくさい人になってしまうくらいなら、せめて、今、もっともロリィタを美しく着こなせると思われる十代後半から二十代前半にかけての今、社会人となって稼ぎがあるおかげで高価なロリィタアイテムも金に糸目をつけずに購入できる今、ロリィタが存在していることが別段珍しくないV系という文化圏に生存できている今、これだけ条件がそろっている今だけは、着ることを、赦してくれたっていいじゃない、どうせ自己満足ってわかってるんだから!!!!!

過剰に卑屈なように思えるが、仕方がなかった。このようにして卑屈に許可を乞うか、それを乗り越えて開き直るかをしない限り、着ることを許されない類の服だという空気が、当時はあった。

許可を乞う。
誰に?
世間に。

かくしてきみは、過剰なまでの罪悪感と理論武装を抱えながら、ロリィタファッションを身にまとい始める。

一度、着てしまえば腹がすわる。
赤信号皆で渡ればなんとやらとばかりに、同好の仲間とつるんで、ロリィタ集団で出歩いてみる。

きみは楽しいと感じる。

とてつもなく、楽しいと感じる。

ずっと憧れていた、可愛くて、可愛くて、可愛くて、あまりの可愛さに失神してしまいそうなドレス、ブラウス、スカート、ドロワーズ、パニエ、ボンネット、ヘッドドレス。勇気を振り絞って出かけたショップの店頭で、実際に触ってみてはため息をつくばかりだったあのお洋服たちを、きみは今、身にまとって、街を闊歩しているのだ!

きみが体感した高揚感は、言語を絶する。
長年の夢が叶った瞬間だ。

「夢なんて叶わない」

きみは小学生の頃からそう確信していた。

「頑張れば夢は叶う、なんて言葉があふれているのは、夢を叶えた人だけが、言葉を発信できる立場に立てるから。夢に敗れた人間は、そのステージにすら上がることができない。そして、その数は、前者よりも多いんだ」

けれど、きみの夢(のうちのひとつ)は叶った。きみは考えを少しだけ改める。改めるのではない、バージョンアップだ、と言い訳をしてから改める。

「自分の殻さえ破ってしまえば、案外、あっさり叶っちゃう夢も、この世には存在する」

そして、きみは真理に至る。

「そうか、本当の敵は、『どうせ』『できない』と思い込んでいる、自分自身か!」

己の殻を破って夢を叶えたきみはポジティブだ。なんでもできそうな気がする。

ロリィタ服は戦闘服だという言い回しがある。それはあながち大げさでもない、ときみは思う。

ロリィタを着ているときは、強い気持ちでいられる。なぜならば、己の殻を破って、掴んだ服だから。本当の敵を倒して、勝ち取った服だから。ゆえに、揺るがない。自分を誇れる。きみは自分の意思で、己の弱さを倒し、この服を勝ち取った。だからこれは、戦利品であり、戦闘服なのだ!

お人形のような姿で、きみは雄々しく拳を握る。しかし、その猛々しさは、永続しない。ロリィタ服を脱ぐとき、きみは再び罪悪感を思い出す。「わたしにとっては戦利品でも」と、きみは肩を落とす。「事情を知らない他人からすれば、ただのチンドン屋かも……」。そして再び、理論武装を手に取る。「どうせ自己満足なんだから」。卑屈と開き直りの境界線をいったりきたりする。きみはある側面においては強く、ある面においては弱い。己の振り幅の大きさを通して、きみは人間の多面性を思い知る。

しかし、たったふたつの出来事で、きみは遂に解放される。

罪悪も、卑屈も、開き直りも、そして戦利品云々でさえも、こだわる必要がなくなる。

それは劇的な出来事ではない。ありふれた街角のありふれた光景だ。

その1。

頭の先から足のかかとまで(それは文字通り、ボンネットからワンピースから靴下から靴まで、という意味だ)、全身をInnocent Worldで固めたきみは、街角のカフェでコーヒーを飲んでいる。

カフェと呼ぶのも大仰な、コーヒー一杯280円のチェーン店だ。友人との待ち合わせ時間までの、30分足らずの時間つぶしのために、きみは、こんな格好ですみませんと内心で謝罪しながら、奥のテーブル席に就いている。

そんなきみを、斜め前の席から、じーーーーーーーーーーーーーーーーーっと見つめる幼女がいる。

スコーンをかじりながら、視線をきみから外さない。オレンジジュースのストローを口に含みながら、きみを見つめ続ける。表現としては「くぎづけ」という言葉しか選べない。まさに、くぎづけだ。しかしそれは、目だけではなく、彼女のハートにも、何かがズキュウンと打ち込まれたようだった。

たっぷり20分近くきみを見つめた後、向かいの席に座っていた母親と思しき女性に向かって、彼女は大声で、こういったのだ。

「見て! あの人、お姫様みたい!」



その2。

やはり、全身をInnocent Worldで固めた(それは先ほどのものとは違うコーディネートだったのだが、やはりボンネットとワンピースを身に着けていた)きみは、ロリィタ仲間と入ったカラオケBOXで、ひとりトイレに立つ。

三室ある女子トイレには、きみしかいなかった。用を済まし、手を洗い、全身鏡の前で衣服を整える。すると、扉を押して誰かが入ってくる。60代と思しき、高齢のご婦人だ。きみは鏡越しに婦人の姿を認め、またしても内心、謝罪する。あぁ、こんな格好でごめんなさい……。

しかし、婦人は、きみの姿を認めるや否や、破顔してこう言ったのだ。

「まあっ、可愛いわね。帽子とお洋服がお揃いなのね。いいわねぇ!」


それは劇的な出来事ではない。チープなチェーン店のカフェの一角、あるいはチープなカラオケBOXの女子トイレ。しかし、人を救う出来事は、そんなありふれた場所にこそ、ふいに転がっている。ひとりの幼女と、ひとりの婦人によって、きみは赦される。解放される。

卑屈にならなくても。理論武装しなくても。

戦利品だと誇示して、雄々しく拳を振り上げなくても。

きみ自身がずっと憧れ続けた姿で、きみは今、そこに存在している。



以来、きみにドレス願望はない。変身願望もない。

皆無ではないのかもしれないが、手元にはない。きみは手放してしまった。清々しく。

以前のようにロリィタ服に身を包むこともなくなった。それは、最も美しく着こなせると思われる世代を過ぎてしまったからというのもある。が、やはり、手放してしまったのだ。清々しく。

以前ほどロリィタというファッションに固執しなくなった自分を、きみは「もうロリィタじゃない」「そもそも最初からロリィタじゃなかったのかも」と自嘲する日もある。しかし、確信している。

「わたしは、自分の意思で殻を破り、憧れの服を勝ち取った。あれがなければ、今の自分はいない。あの瞬間、わたしは戦士で、ロリィタだった。間違いなく」

人はミルクレープに似ている、ときみは思う。指をくわえて憧れのお洋服を見ているだけだった自分、憧れの姿を勝ち取った自分、そして、手放した自分。あらゆる自分というクレープが折り重なって、一個のケーキになる。どの層が欠けてもだめ。断面さえも美しい。

だから、と、きみは顔を上げる。

わたしは、何度でも名乗りをあげよう。

「わたしはロリィタ。自分の意思で憧れの姿を勝ち取った、戦士です」