町田樹というフィギュアスケーターの狂おしいほどの魅力について語りたかった件について。

2014年の最後に書いて、ShortNoteに投稿した文章が、8,900viewを突破するという、けっこうな反響をいただいてしまいましたので、こちらにも掲載いたします。

昨年は、hnsm名義での文章を、あまりがっつり書けなかったのだけれども、最後の最後に、これがリリースできたので、すべりこみセーフってことに……してもらえないかなって、内心で、願ってる!笑


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現役引退を発表した、町田樹というフィギュアスケーターの狂おしいほどの魅力について、語りたい。
わたしがどうして、この男のスケートを、狂おしいほどに愛しているのか。
その話を、どうか、聞いてくれないか。


町田樹が、フィギュア界で存在感を強く現し始めたのは、
2012年のグランプリシリーズ中国杯で優勝したあたりからでした。
すでに長く活躍してきた選手ではあったけれども、
遂に世界レベルで覚醒するのかと期待され始めた矢先、
2012年の全日本選手権で、まさかの惨敗。

ソチ冬季オリンピックの代表選出を控えたこの時期において、
町田さんは、
「オリンピック候補の選手6名のうち、第6番目の男」
つまり、候補ではあるけれど、最下位、もっとも可能性の低い男だと、
周囲からも、そして自身でも、認識されていました。

しかし、2012年全日本での惨敗を経験して、
ほんとうに、もう、自分のすべてを捧げて、本気でオリンピックを目指すのだ。
と、彼は決意します。
そして、2013年春、決意の証として、頭を丸めて、坊主にします。

(※ここで、坊主という、ある種の奇行に走ってしまうのが町田クオリティ)
(※フィギュアスケーターなのにそんな髪型でいいのか!? と、トレーナーに心配されたという逸話も、マジ町田感はんぱない)

そして、2013年に自身が演じるプログラムとして、「エデンの東」を選択。
スタインベック著のこの小説に登場するキーワード、「ティムシェル」を、
2013年における自身のスケートのテーマとして掲げます。

「ティムシェル」とは、ヘブライ語で、「汝、治むることを能う」という意味の言葉。
その解釈はさまざまですが、町田さんは、
「自分の運命は自分で切り開く」という意味だと解釈。
2013年、この「エデンの東」というプログラムを通じて、
「ティムシェル」を体現すると宣言し、
2013年、つまり、オリンピックの出場をかけたシーズンが始まりました。

その後は、宣言通りの、すさまじいまでの快進撃。
グランプリシリーズアメリカ杯、優勝。
グランプリシリーズロステレ杯、優勝。
グランプリファイナル、進出。
オリンピック代表選考会を兼ねた、2013年全日本選手権で、2位の銀メダル獲得。

そして、全日本選手権終了直後の、オリンピック代表発表で、
その名を呼ばれ、ついに、ソチオリンピックの出場の切符を手に入れたのです。

ほんの10ヶ月前まで、「第六番目の男」と呼ばれていた彼が。
「自分の運命は自分で切り開く」という決意を込めたショートプログラム、
「エデンの東」を滑り続けることで。
ほんとうに、自らの力で、自分の運命を切り開いていきました。

その後、ソチ五輪では、5位入賞。
そして、フィギュアスケート界では、オリンピック以上に厳しく価値の高い試合とされる、
世界選手権に、日本代表として初めて選出されます。

その大舞台で。

彼は、「エデンの東」を、まったく減点の仕様がない、完璧な演技で、すべりきってみせました。

これが、そのときの映像です。





(これはドイツ語解説の映像ですが、興奮しすぎの実況の臨場感が良い。笑)
(日本語の解説では、「日本フィギュアスケート史上に残る名作」と称されていました)

「自分の運命は自分で切り開く」。
そのテーマを体現すると公言し、その言葉通り、オリンピックにも出場を果たした男が、
シーズンラストの試合である世界選手権で、
このプログラムを、遂に、遂に、完成させたのです。


これが……!

これが、ティムシェル……!!


ティムシェルを完成させた町田さんは、この試合で、
一位と0.33点差という歴史的大接戦で、二位の銀メダルを獲得。
羽生結弦選手に次ぐ、世界ランク2位のスケーターとなったのでした。


町田樹というスケーターの魅力は、
たとえば、ジャンプの安定感を始めとする技術力の高さや、
指先まで完璧に行き届いたアーティスティックな表現力、
バレエとフィギュアスケートを高いレベルで融合させることに成功した数少ない選手と称されるほどの、ダンサーとしてのレベルの高さ、
世界中の解説者がこぞって絶賛する姿勢の美しさ、
などなど、いくらでも挙げられますが、
わたしが、彼を狂おしいほどに好きだと感じる最大の理由はやはり、
己の生き様を通して「ティムシェル」を体現して見せてくれたという、
この、事実。


今、思えば、「エデンの東」を結実させた2014年3月の世界選手権で、
町田樹という競技者は、既に完成を見ていたのです。
実際、町田さんは、ソチ五輪の前から、ソチを最後に引退するという旨も、
発言なさっていました。

だから、2014年も競技を続けると発表があったとき、
わたしは、ほっとしたと同時に、
「どういうことだろう?」
「オリンピックを経験して、気持ちが変わったということだろうか?」
と、なんだかふわふわした疑問も感じていました。

その疑問が、今回の引退にあたって、
関西大学を通じて発表された町田さんのコメントで、
すんなりと、解消されました

http://www.kansai-u.ac.jp/sports/message/machida/2014/12/post_26.html

「去る2014年2月のソチ五輪出場に際し、関西大学を通じて多くの皆さまより賜りました活動支援金等のご芳情にも、改めてこの場で御礼申し上げます。皆さまへの、私なりの御礼の気持ちの一端としても、今シーズンの二つのプログラムを制作し、演じてきたつもりです。」

あぁ……そうか。
五輪出場、そして世界選手権での「エデンの東」完成で、
競技者としての町田樹は、もう完成していたのだけれども。
それを支えてくれた周囲へのお礼として。
言う慣れば、お礼参りのような意味合いで、
今季、もう1シーズン、滑ることにしたのだと。
つまり、今季は、ボーナストラックのようなものだったのだと。

深く、腑に落ちた心地がしました。

メディアでは、「町田語録」なんていって、
彼の独特な言い回しや世界観が、強く取り沙汰されているけれども。
もちろん、それも彼の魅力のひとつで、わたしも(わりとネタ的な意味でも)大好きなんだけれども。
そこまでの世界観を持ったフィギュアスケーターは、少なくとも日本には、
今まではいなかったし、もしかしたら、今後も、もう出てこないかもしれない。
だからこそ、わたしは、町田樹を、狂おしいほど好きだと感じたのだけれども。

町田さんは、「町田にできたんだから、自分にだってできる、と思ってほしい」
という旨の発言をされています。
「ティムシェル」の日本語訳である「汝、治むることを能う」は、
直訳するならば、「叶えることを、自分で可能にする」。
つまり、「わたしは、夢を叶えていい」「成功してもいい」「しあわせになってもいい」
と、自分で自分にOKを出す、という意味としても、捉えることができます。

「自分にだってできる」って、まさに、ティムシェル。

町田さんは、競技者としての人生を自分で切り拓き、
さらに、競技者の次の人生を、やはり自分で切り拓いた。

町田さんがやったんだから、わたしも、やってもいいのだ。
やりたいことを。夢を。未来を。叶えてもいいのだ。
それが、「自分の運命は自分で切り開く」――ティムシェル、ということなのだと、
彼が、教えてくれたのだから。

次の人生の目標が、既に明確に定まっている町田さんの、
その用意周到なところも、マジ町田、としかいいようがないです。
ああ……もう愛してるよ、愛してるよ町田! 狂おしいほどに! すきだよ! すきだよ町田アアアアア!!!!!!!!!!あいしてるよぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!!!!!

町田樹という存在を、いつでも、どこまでも、応援しつづけます。


町田さんの未来に、光あれ!

夏はもう終わったものと思っていた。(夏のエヴァ祭り、旧劇地上波初放送に寄せて)

現在、アパレル系企業でwebデザイナーをしている為、7月の終わりから既にムートンブーツの広告デザイン等を作っています。ので、8月に入った時点で、もう夏は終わったものと思っていましたが、まだまだこれからなのでした……。

この夏は、テレビでエヴァ祭りが構成されていて、非常に熱苦しいです。

8月18日 深夜1:59
日テレ:映画天国「EVANGELION:DEATH(TRUE)2 TV版」

8月22日 21時
日テレ:金曜ロードSHOW!「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 TV版」

8月25日 深夜2:14
日テレ:映画天国「EOE 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に TV版

8月29日 21時
日テレ:金曜ロードSHOW!「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 TV版」

9月5日 21時
日テレ:金曜ロードSHOW!「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q TV版」


このラインナップを見ただけで、言いたいことが、三日三晩ぶんくらいある。

エヴァと呼ばれる作品は大量にありますが、メインのものについて簡単にまとめると、まず、最初に、毎週30分のテレビアニメとして放送された「新世紀エヴァンゲリオン」があります。

このTV版は、非常に思わせぶりな脚本と演出、斬新でカッコイイ映像表現、張り巡らされた伏線の数々が面白く、当時リアルタイムで見ていたアニメっ子たち(※わたしもここに含まれます)を夢中にさせました。
が、なんと、全26話中のラスト2話で、これまで盛りまくってきた謎や伏線の、すべてを放棄。一切の謎の解決がなされないまま、なんだか自己啓発セミナーで上映されるビデオのような、抽象的すぎて何もわからないコラージュ映像のようなものが放送されて、番組はそのまま終了してしまいました。
その衝撃はとてつもなく、視聴者は皆驚き呆れ、監督である庵野秀明氏や、制作元であるGAINAXへの凄まじいまでの批判やバッシングが巻き起こり、エヴァンゲリオンはここで一躍「社会現象」として世に踊り出たのでした。

その後、宙ぶらりんのまま終わってしまったTV版の完結編を映画で作ります、と制作元より発表がありました。
完結編に先駆けて、TV版の総集編(DEATH編)と、完結編の前半20分程度(REBIRTH編)をセットにして上映されたのが、「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 シト新生 DEATH AND REBIRTH」。

その後、DEATH編を再編成し、TV版の総集編の完全版として劇場公開されたのが、今回、8/18に放送される「EVANGELION:DEATH(TRUE)2 」。

そのさらに後、REBIRTH編の完全版として劇場公開されたのが、8/25に放送される、「END OF EVANGELION 新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」。
これは、TV版で自己啓発セミナーとなってしまった25話と26話を作りなおしたという扱いなので、「25話『Air』」「26話『まごころを、君に』」というタイトル区分になっています。
現在、一般に「旧劇」「旧劇場版エヴァ」と呼ばれているのが、これです。

本来ならば、この「Air/まごころを、君に」で、エヴァンゲリオンという物語は、残された謎も解き明かしつつ、きちんとした終わりを迎えるはず、でした。少なくとも、視聴者はそれを望んでいました。

しかし、蓋を開けてみると、これは、とても「きちんとした終わり」とは言えない作品でした。ぶっちゃけ、自己啓発セミナー状態だったTV版と、大差がない。2014年の今となっては、ファンの有志による考察がやり尽くされたのもあり、この旧劇場版で監督が言いたかったことの本質は、当時からのコアなエヴァファンには、ほぼ共有されています(興味のある方は、「エヴァ 旧劇 考察」あたりのキーワードでググると、掃いて捨てるほど出てきます)。しかし、問題は本質ではなく、その表現方法でした。監督のルサンチマンの具現化のようなこの作品を、「監督の個人的な、世間に対する呪詛を、よりにもよってお金を出してくれる顧客に対してぶつけてしまった、酷い八つ当たり」のように受け取った視聴者も多く、さらなるバッシングが巻き起こりました。

わたしも、そのように受け取ったうちの一人でした。当時、公開初日に劇場で見ましたが、もう、「胸クソ悪い」とはこういうことか、と思い知るくらいに気分が悪くて、「だから みんな、死んでしまえばいいのに」という映画のコピーに対して、「お前が死ねよ!!!!」とマジギレし、「わたしはサブカルが好きなほうの人間だが、こんな露悪的かつ八つ当たり的な作品を、サブカルだアングラだといってありがたがるような人間にだけは、絶対になりたくない」と呪いの言葉を吐き、「ああもうエヴァのことは忘れよう、エヴァは間違いなくわたしの人生を変えたが、これは悪い夢だった、わたしにとってのエヴァはTV版24話で終わりだ、この映画はもう二度と見返すものか」と、心に誓ったほどでした。

当時、こういう反応を示したのは、何もわたしだけではなかった。
わたしは当時、パソコン通信サービス「NIFTY-Serve」で、全国のエヴァ仲間たちと、毎夜熱心に考察合戦を繰り広げていましたが(そんなファンたちの活動について、監督自身が、名指しに近いかたちで公然とdisっていたのも、正直、胸クソ悪かった)、コアなファンほど、わたしとまったく同様の反応を示す人が多かった。
古くからのエヴァファンに、エヴァの話となると黙っていられない人、エヴァについて異様に詳しいのに、エヴァを愛しているのか憎んでいるのかわからないような言動を繰り返す人が多いのは、こういう経緯があったからなのです。

そんな、非常に悪い意味で我々の人生に多大なる影響を与えすぎた作品「Air/まごころを、君に」が、今回、深夜枠とはいえ、地上波で放送されてしまう。

危機感を抱かずには居られません。

わたし自身は、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」が上映された当時、「わたしも、そろそろ、トラウマとしてのエヴァ(式波さんのいうところの「エヴァの呪縛」)を乗り越えなければならない」と腹をくくり、TSUTAYAで「Air/まごころを、君に」のDVDを借りて、見返したのです。劇場上映時に初日に一回見たっきりですから、実に15年ぶりに。久しぶりに見た旧劇は、懐かしくて、相変わらず胸クソ悪かったけれど、なんというか、「あれっ」と思いました。
「あれっ、エヴァって、こんなにアングラだったっけ?」と。

今のエヴァは、アングラというよりは「サブカル」な、わりとポップな「クールジャパン」という売り方がなされていて、そっちにすっかり慣れてしまっている自分を発見して、驚きました。
ただ、当時はとんがりまくって見えた映像表現も、さすがに15年も経つと陳腐に感じるところもあったりして、そういう意味でも、「あれっ?」と思いました。エヴァには、特撮や、特にウルトラマンからの影響が強いと言及されることが多いのだけれど、旧劇のアングラさに関していえば、大島渚からの影響もあるよね……? というような考察もしちゃったりして。予想以上に、客観的に見ることができてしまって、それにも驚きました。旧劇については、冷静に語れないくらい、愛憎入り乱れていたわたしだったのに……。

……と、いうように、わたしは、旧劇から受けた傷を乗り越えるのに、実に15年を費やしました。
ですから、こんな作品を無防備に地上波に、それも若い人も視聴しやすい夏休みの深夜などという枠で放送してしまうことに、果てしのない危機感を覚えずにはいられない。
初代のTVシリーズと旧劇場版を知らず、エヴァといえばリメイク版であるところの新劇場版しか知らない若い世代が、うっかりこれを見てしまったら。「えー、昔のエヴァってこんなんだったの? 変なのー」と軽く引いてスルーしてくれれば良いけれど、わたしと同じように、悪い方向の衝撃を受けてしまい、愛と憎しみが入り乱れて、どこに向ければ良いものかわからなくて自傷に至らざるを得ないほどの混乱にぶちのめされてしまう人が、出てしまわないとも限らない。そうなったら、わたしと同様、回復するまでの15年を、黒歴史として棒に振ることになってしまわないとも限らない……。

そんな類の心配をしてしまいます。基本的に、文化によって人生が変わるほどの衝撃を受けるということは、良いことだとわたしは思っているのですが、こと旧劇エヴァについては、「良い衝撃が受けられる作品だよ☆」とは口が裂けても言えないので、今回の地上波放送には、冷や汗しか出ません。わたしにとっては劇薬指定の作品なのです。閉架式の地下室に隔離して、自力でそこに辿り着いてしまった奇特な人だけが、目にできるようにすべきではないかと思うほどの。完全に老婆心ですけれど、それくらい、今でも苦しい思い出なのです、わたしにとって、旧劇のエヴァというものは。

そんな冷や汗をかきつつも、今回のエヴァ祭りに心躍らざるを得ないのは、こちらも地上波初登場「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の放送が、あるからです。

エヴァQ!
エヴァQですよ!!
エヴァQといえば、渚カヲル(ホモ)!!!!
お茶の間に、ついに全国のお茶の間に、カヲルくん(ホモ)が降臨しますよ!!!!!

ああ、この日をどれだけ待ちわびたことか! わたくし、エヴァQは、映画館で4回見て、Blu-rayは初回限定盤を発売日に予約購入し、これまでに何度見返したかわからないくらい見まくっていて、もはやカヲルくん(ホモ)のセリフなら諳んじられるレベルなんですけれども、それでも当然まったく迷う余地もなく9/5の放送を見ますよカヲルくん(ホモ)のために!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

僕はきみに会うために生まれてきたんだね!!!!!!!!!!!!

……そう考えると、TV版エヴァ24話にたった15分登場したきりのカヲルくんによって、わたしはこの19年間、人生を変えられっぱなしですから(腐った意味で)、そういう意味では、Qも、劇薬指定にすべきなのかもしれません。

第一回バードアート・マーケットin神戸花鳥園、ありがとうございました!

2014/2/1-2/2 第一回バードアート・マーケットin神戸花鳥園!
無事に終了いたしました。
我らbonustraxxのブースに立ち寄ってくださった方、購入してくださった方、そして、差し入れ等くださった小娘&コムスメンの皆さん!
本当にありがとうございました!

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こうしてきみは己が名を獲得する(あるいは、きみがロリィタであるための条件)

ドレス願望、というものについて考える。僕ではなく、きみが。

お姫様のような(あるいはセレブのような、スーパーモデルのような。比喩の対象はなんでもいい)ドレスを着てみたいという願望だ。ほとんどの日本人女性が持っているとされている。特別な自分を演出する。いつもと違う自分になれる。そんな言葉がセットでつく。変身願望に類似するのかもしれない。

きみには、その願望がない。しかし、かつてはあったのだ。それも、強烈な願望が。それは、いつか素敵なドレスを着てみたーい、と願うような可愛らしい感情ではなかった。着たい着たい着たい着たい着たい着たい着たいのに着られない着ちゃいけないどうしてどうしてどうしてどうしてこんなに着たいのに着たいのに着たいのにどうしてどうしてどうしてなの! と、地を這い、血反吐を吐き、必死の形相で掴みかかるような、呪詛にも似た想いだ。

ロリィタファッションに対しての。

血反吐を吐き、のた打ち回った末に、きみは結局、憧れのその服に手を伸ばした。おずおずと、しかし、投身自殺を図るのにも似た決意を持って。それは、自己満足のきせかえ遊びだった。きみにとっては。そう言い聞かせていた。それはつまり、悪意ある何者かによって批判され傷つくことを恐れ、先回りで張った、予防線だ。

当時はまだ、「下妻物語」の映画はもちろん、原作さえも出版されていなかった時代。

ヴィクトリアンブームさえ起きておらず、「カワイイ」「ガーリー」といった概念が市場を席巻するより前の時代だ。

ロリィタなんて、どこに着て行っても浮き上がる格好であることはわかってる。

こんなお人形さんのようなお洋服が文句なく似合うような、超絶美少女なんかではないことも、わかってる。

だけど、それでも、着たいんだ!!!!!!

十代半ばでロリィタに目覚めて以来、「似合わないし」「勇気ないし」「お金もないし……」と言い訳して、我慢して我慢して我慢しつづけてきた今、それでも、やっぱり着たいんだよぉぉぉぉぉ!!!!!!!

この気持ちを抑圧したまま、三十路を超えてから爆発するくらいなら、あるいは「本当は好きなのに」という気持ちがねじれ曲がって、愛憎入り乱れた想いでロリィタを罵りまくる類のめんどくさい人になってしまうくらいなら、せめて、今、もっともロリィタを美しく着こなせると思われる十代後半から二十代前半にかけての今、社会人となって稼ぎがあるおかげで高価なロリィタアイテムも金に糸目をつけずに購入できる今、ロリィタが存在していることが別段珍しくないV系という文化圏に生存できている今、これだけ条件がそろっている今だけは、着ることを、赦してくれたっていいじゃない、どうせ自己満足ってわかってるんだから!!!!!

過剰に卑屈なように思えるが、仕方がなかった。このようにして卑屈に許可を乞うか、それを乗り越えて開き直るかをしない限り、着ることを許されない類の服だという空気が、当時はあった。

許可を乞う。
誰に?
世間に。

かくしてきみは、過剰なまでの罪悪感と理論武装を抱えながら、ロリィタファッションを身にまとい始める。

一度、着てしまえば腹がすわる。
赤信号皆で渡ればなんとやらとばかりに、同好の仲間とつるんで、ロリィタ集団で出歩いてみる。

きみは楽しいと感じる。

とてつもなく、楽しいと感じる。

ずっと憧れていた、可愛くて、可愛くて、可愛くて、あまりの可愛さに失神してしまいそうなドレス、ブラウス、スカート、ドロワーズ、パニエ、ボンネット、ヘッドドレス。勇気を振り絞って出かけたショップの店頭で、実際に触ってみてはため息をつくばかりだったあのお洋服たちを、きみは今、身にまとって、街を闊歩しているのだ!

きみが体感した高揚感は、言語を絶する。
長年の夢が叶った瞬間だ。

「夢なんて叶わない」

きみは小学生の頃からそう確信していた。

「頑張れば夢は叶う、なんて言葉があふれているのは、夢を叶えた人だけが、言葉を発信できる立場に立てるから。夢に敗れた人間は、そのステージにすら上がることができない。そして、その数は、前者よりも多いんだ」

けれど、きみの夢(のうちのひとつ)は叶った。きみは考えを少しだけ改める。改めるのではない、バージョンアップだ、と言い訳をしてから改める。

「自分の殻さえ破ってしまえば、案外、あっさり叶っちゃう夢も、この世には存在する」

そして、きみは真理に至る。

「そうか、本当の敵は、『どうせ』『できない』と思い込んでいる、自分自身か!」

己の殻を破って夢を叶えたきみはポジティブだ。なんでもできそうな気がする。

ロリィタ服は戦闘服だという言い回しがある。それはあながち大げさでもない、ときみは思う。

ロリィタを着ているときは、強い気持ちでいられる。なぜならば、己の殻を破って、掴んだ服だから。本当の敵を倒して、勝ち取った服だから。ゆえに、揺るがない。自分を誇れる。きみは自分の意思で、己の弱さを倒し、この服を勝ち取った。だからこれは、戦利品であり、戦闘服なのだ!

お人形のような姿で、きみは雄々しく拳を握る。しかし、その猛々しさは、永続しない。ロリィタ服を脱ぐとき、きみは再び罪悪感を思い出す。「わたしにとっては戦利品でも」と、きみは肩を落とす。「事情を知らない他人からすれば、ただのチンドン屋かも……」。そして再び、理論武装を手に取る。「どうせ自己満足なんだから」。卑屈と開き直りの境界線をいったりきたりする。きみはある側面においては強く、ある面においては弱い。己の振り幅の大きさを通して、きみは人間の多面性を思い知る。

しかし、たったふたつの出来事で、きみは遂に解放される。

罪悪も、卑屈も、開き直りも、そして戦利品云々でさえも、こだわる必要がなくなる。

それは劇的な出来事ではない。ありふれた街角のありふれた光景だ。

その1。

頭の先から足のかかとまで(それは文字通り、ボンネットからワンピースから靴下から靴まで、という意味だ)、全身をInnocent Worldで固めたきみは、街角のカフェでコーヒーを飲んでいる。

カフェと呼ぶのも大仰な、コーヒー一杯280円のチェーン店だ。友人との待ち合わせ時間までの、30分足らずの時間つぶしのために、きみは、こんな格好ですみませんと内心で謝罪しながら、奥のテーブル席に就いている。

そんなきみを、斜め前の席から、じーーーーーーーーーーーーーーーーーっと見つめる幼女がいる。

スコーンをかじりながら、視線をきみから外さない。オレンジジュースのストローを口に含みながら、きみを見つめ続ける。表現としては「くぎづけ」という言葉しか選べない。まさに、くぎづけだ。しかしそれは、目だけではなく、彼女のハートにも、何かがズキュウンと打ち込まれたようだった。

たっぷり20分近くきみを見つめた後、向かいの席に座っていた母親と思しき女性に向かって、彼女は大声で、こういったのだ。

「見て! あの人、お姫様みたい!」



その2。

やはり、全身をInnocent Worldで固めた(それは先ほどのものとは違うコーディネートだったのだが、やはりボンネットとワンピースを身に着けていた)きみは、ロリィタ仲間と入ったカラオケBOXで、ひとりトイレに立つ。

三室ある女子トイレには、きみしかいなかった。用を済まし、手を洗い、全身鏡の前で衣服を整える。すると、扉を押して誰かが入ってくる。60代と思しき、高齢のご婦人だ。きみは鏡越しに婦人の姿を認め、またしても内心、謝罪する。あぁ、こんな格好でごめんなさい……。

しかし、婦人は、きみの姿を認めるや否や、破顔してこう言ったのだ。

「まあっ、可愛いわね。帽子とお洋服がお揃いなのね。いいわねぇ!」


それは劇的な出来事ではない。チープなチェーン店のカフェの一角、あるいはチープなカラオケBOXの女子トイレ。しかし、人を救う出来事は、そんなありふれた場所にこそ、ふいに転がっている。ひとりの幼女と、ひとりの婦人によって、きみは赦される。解放される。

卑屈にならなくても。理論武装しなくても。

戦利品だと誇示して、雄々しく拳を振り上げなくても。

きみ自身がずっと憧れ続けた姿で、きみは今、そこに存在している。



以来、きみにドレス願望はない。変身願望もない。

皆無ではないのかもしれないが、手元にはない。きみは手放してしまった。清々しく。

以前のようにロリィタ服に身を包むこともなくなった。それは、最も美しく着こなせると思われる世代を過ぎてしまったからというのもある。が、やはり、手放してしまったのだ。清々しく。

以前ほどロリィタというファッションに固執しなくなった自分を、きみは「もうロリィタじゃない」「そもそも最初からロリィタじゃなかったのかも」と自嘲する日もある。しかし、確信している。

「わたしは、自分の意思で殻を破り、憧れの服を勝ち取った。あれがなければ、今の自分はいない。あの瞬間、わたしは戦士で、ロリィタだった。間違いなく」

人はミルクレープに似ている、ときみは思う。指をくわえて憧れのお洋服を見ているだけだった自分、憧れの姿を勝ち取った自分、そして、手放した自分。あらゆる自分というクレープが折り重なって、一個のケーキになる。どの層が欠けてもだめ。断面さえも美しい。

だから、と、きみは顔を上げる。

わたしは、何度でも名乗りをあげよう。

「わたしはロリィタ。自分の意思で憧れの姿を勝ち取った、戦士です」

沖縄で、夏だった。

2011年9月14日〜17日、ボートラ社員旅行で沖縄に行ってきました。

楽しかった……。
初の沖縄でしたので、今回はわりとベタな観光地(国際通りとか、美ら海水族館とかね)をメインに回りましたが、いやぁ、楽しかったです。

上條淳士の「SEX」を読んで、沖縄に憧れていたのもあって、コザや金武町あたりへの憧れが強くありましたが、さすがに女二人の初沖縄旅行で金武町に行くのは恐いよね……ということで、今回は自重。
しかし、滞在ホテルのある那覇市内から、美ら海水族館のある北部へバスで移動する際に、コザ付近を通過して、その雰囲気の片鱗を味わうことができました。

島の中心部のほとんどを占めるのが、周囲に金網の張りめぐらされた米軍基地、通称「金網地帯」。
沖縄県民であっても、一歩も中に入ることが許されない場所。
高速道路の上から見た金網地帯の内側は、広い庭と戸建ての住宅がずらっと並んだ、完全なるアメリカの世界でした。

コザ(沖縄市)では、お店の看板に英語表記が併記されているのも、値札に円とドルの両方が書かれているのも、ドルでお買い物をするのも、銀行に円とドルの両替機が置いてあるのも、当たり前。
日本であって、日本でないような、不思議な場所、コザ。

金武町にある伊芸サービスエリアに降りた際、不思議な音を聞きました。
タンタンタンタン、というか、バババババババッ! というか、そんな音。
最初は、「あの映画の銃撃戦みたいな音はなんだろう?」と思っていたのですが、ここが金武町であることに気づいたときに、「あっ、そうか、これは本物の銃の音で、近くの基地で射撃訓練をしているのが聞こえているんだ」と思い至って、ハッとしたのです。

米軍基地では、昔は、若い独身の兵士が多く赴任していて、基地内には単身者向けの寮がたくさんあったらしいのだけれども、若い兵士が多いということは、それだけ、近隣の住人とのトラブルも多いということで、苦情が相次いだのだそう。
それで、今は、既婚兵士が、家族を連れて赴任しているのが多いのだそうです。
かつてたくさんあった単身者向けの寮も、ほとんどが取り壊されているとか。

基地の中には、スーパー、病院、学校はもちろん、映画館やバーなどの娯楽施設も充実していて、すべての部屋にエアコンの完備された広い住宅(「すべての部屋にエアコン完備」は、基地内に建てられる住宅の必須条件なんだとか)に住まうことができるので、沖縄に赴任した兵士は、そのあまりの快適さに、なかなか島を出たがらないとか……。

そして、そんな娯楽施設や、住宅等の光熱費などは、日本政府の「思いやり予算」で、日本側がお金を負担しているとか……???

正直、基地問題についてはほとんど関心のなかったわたしなので、不勉強ゆえに良いとか悪いとかジャッジするようなことは言えないのですが、ただ、こうして基地を目の前にしてみると、様々な「???」が湧いたのです。

いろんな意味で、不思議な島だ、沖縄……。

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